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第342号

2008年1月17日

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週刊連載記事 老樹名木が語る「ふるさとの自然・歴史・暮らし」
 老樹名木は、数百年あるいは数千年以上も地域の人々の暮らしとともに生き続け、語り継がれる物語や伝説をはぐくんだり、ご神木として敬われたりして、人々の心のよりどころになっています。これらは、先祖から受け継いだ県民の財産として、子孫に守り伝えなければならない宝です。熊本の自然やそれにまつわる人々の思いなどを織り込み、熊本の代表的な「老樹名木」を連載で紹介します。
 今回は、菊池郡(きくちぐん)菊陽町(きくようまち)にある町指定天然記念物の「鉄砲小路の木斛(もっこく)」と、同じく「鉄砲小路(てっぽうこうじ)の椿(つばき)」を紹介します。


樹齢350年の鉄砲小路の木斛(菊池郡菊陽町)
■鳥栖(とす)家の庭先の木斛(もっこく)
モッコク
町指定天然記念物
樹齢   
(推定)350年
幹囲   
2.5メートル
樹高   
10メートル
 モッコクは樹形が美しくて気品があり、自然に姿形が整う木なので「庭木の王」といわれます。加えて性質強健で寿命が長く、肥沃土を好むが土質は選ばない、成長が遅いので樹形が変わりにくいなど、庭木として大切な性質も兼ね備えています。江戸時代からアカマツ・イトヒバ・カヤ・イヌマキとともに「江戸五木」と呼ばれ、重用されてきた造園木です。その成長の遅い木が、この鳥栖家の樹のような大きさに育つには300年以上の歳月が必要で、第一代藩主・細川忠利公が鳥栖家を訪問されたときには、ここに存在していたことが伝えられています。
 モッコクはツバキ科の常緑広葉樹で、日本列島から東南アジアの暖地に分布し、県内でも沿海地の低山丘陵に普通に自生が見られます。葉はしゃもじ形で厚く、表面は深緑色で光沢があり、裏面は淡緑色で日当たりの良い場所では葉柄(ようへい:葉と茎をつなぐ部分)が赤みを帯びています。小さい白い花が6月に葉の付け根にぶら下がるように咲きます。その花の中を覗いて見ると、花の中心に雄しべがヤブツバキのように束になって付いていて、その形からツバキ科だと納得します。庭木として広く植栽されていますから、花の時期にちょっと注意して、できれば虫眼鏡を使って観察すると、自然がうんと近づいてきて楽しいものです。
 もっと観察をするなら、その花の蕾は真冬に形成されますから、6月の開花まで半年間はいつでも見つけることができます。そして小さな果実が10月から11月になると赤く熟し、12月になると破れて中から赤い種子が軸にぶら下がった状態で顔を出します。果実も種子も赤いということは、小鳥に見つけてもらい、食べてもらって、遠くに行って糞と一緒に撒き散らしてもらうのに好都合な形質です。
■防衛線だった「鉄砲小路」(てっぽうこうじ)
 鉄砲小路の地名は、熊本城から「鬼門」にあたるこの場所に細川忠利公が寛永12年(1635)、豊後(大分県)からの敵に備えて鉄砲衆を配置したことに由来します。熊本市から国道57号を阿蘇方面に向かい、JR豊肥本線の三里木駅を過ぎたところを左折し、1.2キロメートルほど進むと県道新山原水(しんやまはらみず)線と交叉します。その道沿いの約4キロメートルの範囲が、鉄砲衆の暮らした集落「鉄砲小路」です。三里木駅を出たところに熊本城から3里(約12キロメートル)の里程を示す里数木(エノキ)があったことを示す「三里木」の標識があり、駅名にもなっているのです。
 鉄砲衆は平時は農耕に従事し、敵の侵攻があった場合にはここで防衛の戦力となる集団です。一カ月のうち4の付く日は剣術、9の付く日は砲術の稽古のため藩校に出仕し武芸に励みました。原野を一人あたり2〜6町(約2〜6ヘクタール)開墾して農地とし、石高20石の土地所有を認められていました。
 幕藩体制の中で農民は、年貢米の生産者として「五人組」に組織されていました。しかし、鉄砲衆は武士ですから年貢米を納める組織は必要ありませんが、武士としての責任を分かち合う自治生活の単位としての「五列」が組織されました。今日でも「五列の責任」という言葉は生きており、五列の中の一軒に何か起これば、4軒が協力して助け合う慣習が残っています。これはほかの農村集落には見られないことです。
 鉄砲小路では、東西に走る県道に面して北側に間口15間(約28メートル)で奥行き40間(約74メートル)の細長い敷地に屋敷があり、道を挟んで南側に間口15間で奥行き6元(11メートル)の敷地に収納小屋が建っています。
■4キロにわたる日本一の美しい生垣
 鉄砲小路の家々は、上に述べたように規則正しく配置されていたので、以前は国道57号やJR豊肥本線の車窓から見ても、農地の先に屋敷が整然と並ぶ独特の雰囲気の景観を形成していました。それぞれの家の垣根は、江戸時代には中から外が見渡せる竹垣でした。その後、時代とともに竹垣が生垣に変わっていったのです。
 昭和57年に、増加する自動車交通にあわせて県道の拡張工事が行われることになり、敷地の提供に伴い、生垣が撤去されることになりました。その時、地区ぐるみで「生垣保存運動」が起こりました。ブロック塀や石垣ではなく、地区のシンボルともいえる生垣を子孫のために残そうと全員一致で生垣の保存を決めたのです。以来、地区全体で調和した美を保ってきた生垣は、「第1回くまもと景観賞」を受賞、また後世に残るすぐれた文化として「くまもとアートポリス選定既存建造物」に選ばれています。
 現在、この生垣を美しく守るために、大学生のボランティアが26年間続いています。「緑の垣根運動」と称し、九州東海大学の学生「緑の会」のメンバーが毎年11月に剪定作業を行います。これは故戸田義広同大学教授の発案で始まった活動で、毎年約30人の学生が参加します。このような多くの人たちの努力によって、今も美しい町並みが維持されているのです。
■地域全体を潤す堀川水路
 鉄砲小路の北側には集落と平行して流れる堀川という水路があります。堀川という名が示すように人間が掘った川、つまり江戸時代に開削された農業用水路で大津町勢田付近の白川から取水して熊本市清水で坪井川に合流する延長約24キロメートルの川です。
 熊本で土木工事というと加藤清正公と考えますが、この工事は二代目の忠広公が元和4年(1618)に始め、加藤家の後に肥後藩主となった細川忠利公が工事を再開して寛永14年(1637)に完成しました。ここ肥後台地は、阿蘇火砕流によって形成された水の浸透しやすい地層ですが、この水路によって豊かな水田が開かれました。また、水路は水を運ぶだけでなく、水路からの漏水という形で地下水を涵養(かんよう)してきたのです。現在もこの水田は、吸水性の良い土地を利用し、生活用水のほぼ百パーセントを地下水で賄う熊本地域の地下水涵養に重要な役割を果たしています。
 この堀川の名残りの地名である、鉄砲小路中央付近の下堀川には鉄砲衆の氏神の蘇古鶴(そこづる)神社があります。祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)と比刀iひめ)大神で、寛永12年(1635)の建立で、木造銅板造り2層建築の立派な楼門があり、菊陽町の文化財に指定されています。
 また、菊陽町ではニンジン栽培が盛んで、国の産地指定を受けています。「熊本長人参」「菊陽人参」などのブランド名で全国に出荷され、近ごろでは、甘くてジューシーな「フルーツ人参」を栽培する農家も増えてきています。
 隣町の大津町特産のサツマイモはブランド名「ほりだし君」で知られています。このいもで作った「いきなりだご(団子)」のおいしさは1度食べたらやみつきになるほどです。短時間で「いきなり」作れることから、その名がついたといわれますが、輪切りにした生のサツマイモを小麦粉を練った生地で包んで蒸した素朴なお菓子です。最近ではサツマイモといっしょにあんこを包むことが多いようです。熊本の家庭ではおやつによく作られますが、郷土名物としても全国的に人気があります。


[案内図]
所在地:
菊池郡菊陽町大字原水
 
国道57号を東へ。原水駅方面へ左折。JRを越えて直線約800メートル。県道311号左折、入り口が分かりにくければ県道30号を左折。1本目の農道を左折すると1本目の角地内。
 



樹齢350年の鉄砲小路の椿(菊池郡菊陽町)

■満開の花で春を知らせる古木
ヤブツバキ
町指定天然記念物
樹齢   
(推定)350年
幹囲   
2.1メートル
樹高   
8メートル
 上堀川東端の林家の裏庭にあり、台風で頂部を失いましたが樹勢は極めて良く、春には美しい花を数多く咲かせます。細川藩がこの地域に鉄砲組を配置して戦時に備えたことから、ここ一帯を鉄砲小路と呼びます。
■鉄砲小路の生垣に彩りを添える赤い花
 鉄砲小路の東端にある林家の裏庭にあるヤブツバキの大樹です。早春には赤い花を数多く咲かせて鉄砲小路の濃い緑の垣根に彩りを添えます。ヤブツバキは防火の意味もあって屋敷の周囲に植えられたそうですが、貴重な椿油を搾る材料となる実を収穫する木として大切にされました。しかし、現在まで大きく育って残っているのはこの樹だけです。ヤブツバキは我が国の暖地に広く分布する常緑広葉樹ですから、多くの人にとって珍しくない見慣れた木です。ただ、このように大きく育ったヤブツバキは珍しく、鉄砲小路の変遷を350年間も見守り続けて、今も毎年見事に花を咲かせています。
 ヤブツバキの花は、花びらと雄しべが基部でくっついているので、散るときには雄しべまで一緒にぽとりと落ちます。夏目漱石が「落ちざまに虹を伏せたる椿哉」と俳句にした散り様で、落椿(おちつばき)が散り敷いた姿も風情があり、落椿を拾って糸で繋いで首飾りにして遊んだりするなど、多くの人にとって馴染み深い樹木です。熊本を代表する民謡・五木の子守唄にも「花は何の花 つんつん椿 水は天から貰い水」と歌われています。
 また、「赤い椿の・・・」と歌われるように、身近な低山丘陵で早春も早い時期から赤い独特の形の花を咲かせます。花が赤いのは、花粉を小鳥たちに運んでもらう鳥媒花(ちょうばいか)であることと大きく関係しています。黄色や青が良く見える昆虫と違って、鳥は赤い色が良く見えます。ヤブツバキが咲く早春は昆虫が活発に動き出す前ですから、昆虫を相手にするよりも鳥に花粉を媒介してもらう方が有効なのです。ヤブツバキの花の中にメジロなどの小鳥が首を突っ込み、頭を花粉だらけにしている姿はよく見られます。その頭で別の花の蜜を吸いに行けば、そこの雌しべに花粉が付いて受粉し、受精が行われます。蜜は花の基部にたくさん溜まっていますから、子どものときに吸った思い出のある人も多いでしょう。甘いお菓子が溢れている現代と違って、甘味に飢えていた昔の子どもは麦藁を使って上手に蜜を吸っていました。
■椿は「春を代表する木」
 ツバキは漢字で書くときに「椿」と書くのが普通です。しかし、椿は中国ではチャンチンという中国の北部と中部に分布するセンダン科の落葉高木を指す字で、日本のツバキとは似ても似つかない植物です。日本人は春を代表する木という組み合わせの意味で使います。秋を代表する草という意味で萩という国字を使うのと同じです。
 ツバキの材は堅く、腕くらいの太さの枝があると独楽を作ることができます。地中の鉄分を吸収して材の中に塊ができるので、木工時にその塊にのみの刃が当たると刃が折れることがあります。そのため「のみとりの木」と呼ばれています。
■古来より好まれたツバキ
 ヤブツバキを園芸的に改良したものがツバキで、日本が作り出した園芸植物の中で最も重要なものの一つとなり、その名は世界に轟いています。日本人は古くから山野に自生するヤブツバキを、実用だけでなく鑑賞の対象にしてきました。万葉集にも登場しますが日本書紀には天武帝の13年(684)に吉野から「白海石榴(しろつばき)」が献上された記述があり、古い時代から野生と異なる白花のような形質が尊重されていたことがうかがえます。わが国でツバキの栽培が盛んになったのは徳川時代の始めからで、家康公がツバキを好み二代将軍の秀忠公が江戸城吹上御殿の庭にたくさん植えたことがきっかけになったといわれています。元禄時代(1688〜1703)になるとツバキを鑑賞する楽しみは庶民にまで広まり、庭木・盆栽・切花としての目的に応じて多くの品種が作られました。その中心は江戸や京都ですが、熊本でも日本を代表するツバキの一つである肥後椿が作られました
 ツバキがヨーロッパに紹介されたのは1712年ですが、1739年に実物が届いてヨーロッパの人々は初めて見た花に驚嘆しました。その後、いろいろな品種のツバキが書籍や実物で紹介され、憧れの東洋の美しい花の代表になりました。歌劇「椿姫」の誇り高きヒロインのシンボルであるツバキの花は、そのような背景の中の花であって、裏山のヤブツバキと似たような感覚で考える日本人の価値観とは大きくかけ離れた、パリ社交界の華にふさわしい豪華な花だったのです。
■全国に知られた大津街道の杉並木
 鉄砲小路から南を眺めると、現在は国道57号と豊肥本線が走っている豊後街道と、その両側にある杉並木が見えます。この付近では豊後街道を大津街道と呼ぶので、普通は「大津街道杉並木」と呼ばれています。文政元年(1818)にこの地を訪れた頼山陽(らいさんよう)が「大道平々砥も如かず 熊城東に去れば総て青蕪 老杉路を夾んで他樹無し 缺くる処時々阿蘇を見る」と、阿蘇を眺めながら讃えた美しい杉並木で、「肥後の大杉並木」として全国に知られました。現在でもその面影を残す杉並木が約12キロメートルにわたって残され、菊陽町のシンボルとして大切にされています。
 大津街道は凹道(おうどう)になっていて、杉並木のある面より一段低く街道が作られています。これは軍隊の移動が見つからないようにだとか、いざというときには杉を切り倒して道を塞いで防ぐためだとかいわれますが、凹道にしたのはその形が維持管理するのに一番都合がよかったからです。その凹道の中に、現在は旧国道57号とJR豊肥本線が並んで通っているのですから、街道として随分余裕のある設計でした。昭和61年(1986)に「日本の道百選」に指定されています。
 この杉並木には、400年ほど前に肥後の北半分を治めた加藤清正公が屋久島から取り寄せた杉を植えたという言い伝えがあります。清正公は豊後街道を、肥後と中央を結ぶ重要な道として整備し、歴代の細川藩主もまた参勤交代の道としてその維持に努めました。大津町の文化ホールには、参勤交代の行列を描いた陶板画があります。
 大津から二重峠(ふたえのとうげ)への杉並木は、明治維新後に藩の管轄を離れて伐採されてしまいました。現存する菊陽町に最も多く残る杉並木も、近年車の排気ガスなどの影響で枯れたりしたことから、昭和62年(1987)に地域の人たちがこの歴史的遺産を守ろうと屋久島から屋久杉の幼杉を取り寄せ、補植しました。これが縁となって縄文杉で有名な屋久町との交流が始まったそうです。

 近くには、大津町の県指定天然記念物の樹齢600年から700年の「天神森の椋」、ふるさと樹木の樹齢300年から400年の「葉山さんの小賀玉木(おがたまのき)」があります。また、菊池市旭志の市指定天然記念物の樹齢400年の「仏供石の椨(ぶくいしのたぶのき)」や同市泗水町にある市指定天然記念物の樹齢300年の「村吉の石櫧(いちいがし)」があります。

※「樹齢600年から700年の天神森の椋」はこちらから
http://www.kininaru-k.jp/bns/back_doc/07052007/roujyu.html

※「樹齢400年の仏供石の椨」はこちらから
http://www.kininaru-k.jp/bns/back_doc/11152007/roujyu.html

※「樹齢300年の村吉の石櫧」はこちらから
http://www.kininaru-k.jp/bns/back_doc/08092007/roujyu.html


[案内図]
所在地:
菊池郡菊陽町大字原水
 
国道57号を東へ。原水駅方面へ左折。JRを越えて直進約800メートル。県道311号左折、入り口が分かりにくければ県道30号を左折。1本目の農道を左折、1本目を右折して4〜5軒目右。
   

本文中の写真および地図については
(財)くまもと緑の財団発行の
「くまもとの老樹名木ガイド」より転載
詳しくはこちらから