第335号
2007年11月29日
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老樹名木は、数百年あるいは数千年以上も地域の人々の暮らしとともに生き続け、語り継がれる物語や伝説をはぐくんだり、ご神木として敬われたりして、人々の心のよりどころになっています。これらは、先祖から受け継いだ県民の財産として、子孫に守り伝えなければならない宝です。熊本の自然やそれにまつわる人々の思いなどを織り込み、熊本の代表的な「老樹名木」を連載で紹介します。
今回は、水俣市(みなまたし)江添(えぞえ)にあるふるさと熊本の樹木の「侍の櫨(はぜのき)」と、球磨郡(くまぐん)五木村(いつきむら)にある県指定天然記念物の「宮園(みやぞの)の銀杏(いちょう)」を紹介します。
樹齢250年の侍の櫨(はぜのき)(水俣市江添)
■江戸時代から藩の財政を潤した櫨(はぜのき)
ハゼノキ
ふるさと熊本の樹木
樹齢
(推定)250年
幹囲
4メートル
樹高
10メートル
細川藩は宝暦の改革のとき、木蝋(もくろう)生産による財政再建を目指して、ハゼノキをたくさん植えました。最盛時には10万本あったと言われ、この古木は「宝暦の櫨」とも呼ばれて、残っている中では最大の樹です。近くに水俣市立の「侍街道はぜのき館」があります。
■細川藩の財政改革の主役、ハゼノキ
このハゼノキが地元で「宝暦櫨(ほうれきはぜ)」と呼ばれるのは、宝暦4年(1754)に第6代藩主細川重賢(しげかた)公が行った藩政改革「宝暦の改革」の一つとして、水俣地区に植栽された株が現在まで生き続けて改革事業のシンボルになってきたからです。
重賢公が藩主に就任したとき、肥後藩の財政状況は極めて厳しいものでした。当時、鍋・釜・鉄瓶などの鉄製品の金気を抜く効果的な方法として、器の中に「細川様」と書いた紙を入れて一回沸騰させればよいといわれました。鍋や釜の材料がアルミなどに変わり、また表面加工の技術が進んで「金気抜き」のような処置が不要になった現代では理解されにくいのですが、新しい鉄器を洗っただけで使うと金気臭くて我慢できないものでした。それで実際に煮炊きする前に、金気が抜けるまで何回か湯炊きして、その後内側や外側についた水分をふきとるなど、手間をかけて金気を抜かなくてはなりません。それがたった一回で「細川様」が全部の金気を吸い取ってしまうから、鉄器がすぐに使えるようになるという笑い話です。
当時の細川藩は、そのような冗談話が広く流布されるほどお金がなく、あちこちに借金が溜まり現代的にいえば自己破産寸前のような状態だったのです。それを脱却するために重賢公は、大奉行に抜擢した堀平太左右衛門(ほりへいたざえもん)の下に六奉行を置く行政改革を断行し、法制改革や文教政策を次々に具体化すると同時に財政・産業政策を次々に強力に進めました。年貢米だけに依存する藩財政の限界を乗り越える新しい産業の育成に積極的に取り組んだ重賢公は、櫨蝋(はぜろう)と楮(こうぞ:和紙の材料)と生糸(きいと、絹織物の材料)の生産を藩の専売で行うことを計画しました。
産業政策のトッブに据えられた櫨蝋の事業を藩の専売として行うため設けられたのが櫨方(はぜかた)役所です。熊本市民会館前から熊本城に入る行幸橋(みゆきばし)を渡ってすぐ右に曲がり、竹の丸西枡形(ますがた)を通過した先にあるのがその役所の正門で櫨方門と呼ばれてきたものです。ただし、櫨方役所があったのは櫨方曲輪(ぐるわ)と呼ばれる現在の加藤神社が鎮座する場所で、終戦までは陸軍法務部があって西南戦争でも焼けなかった門は、その厳めしい役所の正門となっていました。戦後は県立図書館の正門となりましたが、昭和29年に白蟻の被害で倒壊寸前になって解体され、昭和32年に現在地に昔の姿のままに復元されました。
■室内照明の高級品、和蝋燭(ろうそく)の原料
ハゼノキは、ロウノキと呼ばれることもあるように、果実の皮の部分に蝋を含んでいて木蝋(もくろう)の原料とするため各地で栽培された落葉高木です。また、別名がリュウキュウハゼとかトウハゼというように、櫨蝋をとる目的で導入された外来種で、日本に自生するヤマハゼよりも多くの実をつけます。そして、それら栽培株の種子から山野に芽生えて野生化した株が増えています。身近な低山丘陵で普通に見かける木ですし、秋に美しく紅葉することと、皮膚の弱い人が枝葉に触るとかぶれることで知っている人が多い植物です。
しかし、蝋燭の原料つくりが藩の財政再建に貢献するとは考えにくいのは、現代に生きるわたしたちがエネルギーの大量使用で明るい生活に慣れすぎているからです。江戸時代の生活では、室内照明の代表は行灯(あんどん)でした。小皿に油を入れ、灯心を浸して点火し、風で吹き消されないよう障子紙を貼った枠の中に入れる、それだけの装置です。白い紙を貼った枠に入れることは、光源の面積を広くして部屋を柔らかく照らす効果もありました。とはいえ、その明るさは貧弱なもので新聞もまともに読めないくらいですので、現代のわたしたちにはとても生活できません。
江戸時代には石油系の灯油はありませんから、菜種油などの植物油を使いました。しかし、それは美味しい食用油で高価なものですから、低所得者は半額くらいで買える魚油を使っていたそうです。江戸では房総半島沖でとれるイワシの油が広く使われたといいますから、行灯を使えば部屋中に焼き魚の匂いが満ちたことでしょう。
その点、蝋燭は素晴らしく上等な照明道具です。明るくて、固体ですから持ち運びに便利で、灯明皿の油をひっくり返すような失敗もありません。でも、高価なものでしたから一般家庭ではちょっと使えない贅沢品だったのです。それで、江戸時代に人々は都市に住んで農業の現場から離れても、朝日が出れば仕事を始め夕日が沈めば家に帰って休む暮らしは変わりなかったのです。
その蝋燭はハゼノキの実を木に登って収穫し、果皮から蝋成分を圧搾または抽出して大釜で溶かし、それを日光・空気・水で晒して木蝋に仕上げてから作ります。
■各地で進められた蝋燭産業
ハゼノキは全国で植栽されましたが、もともと暖地性の植物ですから九州や四国が栽培に適した地域です。大分県の日田市は天領だったこともあって、武士の支配というより商人たちの力で豊かな町づくりがされましたが、その産業の一つが製蝋業だったのです。日田の旧家で、その屋敷建造物が大分県の文化財に指定されている草野本家では、元禄元年(1688)から電灯がともる明治の頃まで、木蝋の製造・販売を行い、京都や大阪に出していました。その折に、娘や孫のみやげに京から雛人形を持ち帰ったのが、現在の「天領日田おひなまつり」で知られる行事のもととなりました。当時雛人形はとても高価で庶民にはなかなか手に入るものではありませんでしたが、あれだけ立派な雛人形を上方から購入できたのも、櫨蝋の生産と販売が築き上げた財力の基盤があったからだったのです。ノーベル賞作家、大江健三郎の故郷、愛媛県の内子町も白壁の美しい町並みが有名で多くの人が訪れますが、ここも蝋燭産業で栄えた町です。
■ハゼノキで栄えた侍地区
それだけの経済効果が見込まれるからこそ、櫨蝋の生産が宝暦の改革における産業政策のトップにあげられたのです。その最大の拠点として水俣の小田代(おたしろ)台地の侍地区を中心に何万本ものハゼノキが次々と植えられ、栽培株数が10万本以上になったこともあります。現在でも1万5千本のハゼノキが残っていて、次々に紅葉する景観は見事です。その中の最大株が「侍の櫨」で、台風にもびくともしないくらいどっしりと根をはっています。幹は根元から分かれて力強く伸び、真下から見上げると全体が視野に収まらないほど大きく枝が広がり、樹齢250年を超える貫禄に圧倒される巨樹です。この樹からは実が240キログラムくらい採れたので、30キログラム入の俵が8個になる樹という意味で「八俵なり」と呼ばれています。
侍地区は、肥後と薩摩を結ぶ薩摩街道の国境の軍事上の要所でした。また、細川氏の直轄地であったので藩のハゼノキ栽培の拠点となったのです。集落の中心は五差路になっていて、古くは肥前陣と呼ばれ、豊臣秀吉の島津征伐の折、肥前佐賀の軍勢が陣を敷いたと伝えられます。付近には茶屋もあり、肥前茶屋といわれたそうです。この五差路にほど近い北の台地の小高いところに2枚の大きな平石が重なった「お上り石(おのぼりいし)」があります。大正2年(1913)に石の傍らに建てられた記念碑には、寛永9年(1632)初代肥後藩主細川忠利(ただとし)が藩内巡視の折、この岩に立ち境川に煙を上げさせ肥薩の国境を確認したのが先例となって代々の藩主がこれにならったことが記されています。
ここの地区は、軍事上の要所であったからか、ハゼノキの栽培事業に多くの侍が集まったからか、それとも別の由来があるのかわかりませんが、侍という面白い名前です。地元では「さむれ」とか「さむね」という言い方をしています。
「侍の櫨」に行く山道の入り口近くに「侍街道はぜのき館」があって、ハゼノキの実から精製される製品が展示され、和蝋燭作りの体験もできます。14年続いた「はぜのき祭り」が今年は中止されたのが残念です。冬になるとあちこちのハゼノキに、地域の名産「寒漬け(かんづけ)」の材料にする白い大根がたくさん掛け干しされる姿は、季節の風物詩として知られています。
■県内各地の櫨並木
熊本県は全国のハゼノキの実の生産量の30〜40%を占める日本一の生産量を誇り、その中でも水俣市の生産が最大です。ただ、電灯の普及と照明器具の改良発展によって蝋燭が照明の王座から転落してしまった現在、櫨蝋の生産は非常に厳しい状態になっています。しかし、現在も趣味的な意味を含めて生産されている和蝋燭の他にも、お相撲さんの鬢付け(びんつけ)油には不可欠なものです。また、湿りが良くつやを出すため、化粧品や医薬品などさまざまな用途がある貴重な天然資源の一つです。戦前から戦後までJapan Waxの名で欧米に輸出されていたものですから、蝋燭以外の利用法の発展に期待したいものです。
ハゼノキは県内でも各地で植栽され、現在は株数が少なくなったとはいえ大津街道や御船(みふね)川堤防や菊池川堤防には櫨並木が残っています。特に「菊池川堤防の櫨並木」は平成19年2月に植物としては全国で初めて国の登録記念物に指定されました。玉名市の繁根木(はねぎ)から小浜(こばま)まで約3.7キロメートルにわたる櫨並木です。先週11月23日には、菊池川右岸で「はぜ祭り」が開催され、櫨蝋を使った和蝋燭作りが人気を集めました。
侍の櫨の近くには、県の天然記念物の樹齢800年の「薄原(すすばる)神社の竹柏(なぎ)」、樹齢200年以上の「茂川(もがわ)の山梨」があります。
[案内図]
所在地:
水俣市江添字西平
水俣駅前の道路を南下して踏み切りを渡り、侍地区を目指す。駐車場は「侍街道はぜのき館」。ここの案内板にしたがって徒歩15分。道順ははぜのき館で聞くと間違いない。
樹齢500年の宮園の銀杏(球磨郡五木村)
■県内一の樹高を誇るイチョウの巨樹
イチョウ
県指定天然記念物
樹齢
(推定)500年
幹囲
8.3メートル
樹高
45メートル
この樹は、清流川辺川(かわべがわ)が静かに流れる宮園の集落の中に高く、枝張り良くそびえています。文禄5年(1596)相良長恒(さがらながつね)が朝鮮からの帰還を記念して植えたと伝えられ、樹高45メートルでイチョウでは県下一の樹高です。隣接する宮園阿蘇神社には、イチイガシの巨樹群があります。
■イチョウにまつわる言い伝え
五木村の中心・頭地(とうじ)から北に7キロメートルほど川辺川左岸の国道を遡ると、五家荘の山々から深いV字谷を刻みながら流れて来た川の谷が、少し広く開けたところに宮園の集落があります。穏やかに流れる清流を前に田園風景が続く農村の、静かな佇まいの心和む景色です。ここから右岸の平野(ひらの)に渡る橋の少し手前から右の道を入ると、すぐ目の前に高くそびえる巨樹があります。このイチョウは雄株で、もともとは雌雄揃って2株あったものですが、昭和40年の台風で雌株が倒れて伐採され、雄株だけになりました。
樹勢は盛んで、枝張りは四方に25メートル以上も伸びて豊かな緑陰を作っています。秋には樹全体が黄金色に輝くように黄葉して周辺一帯に明るく照り映えます。枝のところどころから乳房のような気根が垂れ下がっています。
このイチョウは文禄5年(1596)に、朝鮮出兵から帰還した相良家20代の長毎(ながつね)公が植えさせたものと伝えられています。この樹の周囲にはたくさんの民家がありますが、大風などで折れた枝は不思議なことに民家には当たらず、道路など空いている場所に落ちるそうです。その落ちた枝を商売として販売したら怪我をしたとか、乳房状の気根を切り取って煙草入れを作った人が原因不明の病気でなくなったとか、このイチョウを傷つけると不吉なことが起こると言われています。
以前は、このイチョウの樹の下で春には豊作を祈り、秋には豊かな収穫を喜ぶ祭が行われていました。現在は11月に「イチョウ祭」が開催され、黄葉が美しく色づくとライトアップされます。近くから黄金色に色づいて高くそびえる樹の大きさを実感しながら眺めるのも良いでしょうし、対岸の小高いところから暗い中に浮かび上がる神秘的な大イチョウの姿を眺めるのも一見の価値があります。
■鎮守の森のブッポウソウとハナコギセル
この樹のすぐ隣りにある釈迦堂の横に幹囲6メートルを越えるイチイガシの巨樹があります。また、お堂の北側にある宮園阿蘇神社の境内には、幹囲5メートルを超えるイチイガシを筆頭に9本のイチイガシの巨木が群生しています。幹囲3.8メートルのタブノキの大樹もあり、社叢はまさに巨木ずらりの鎮守の森です。
この社叢には毎年夏になると渡り鳥のブッポウソウが南の国から飛来していました。ハトくらいの大きさの濃い緑や赤の派手な装いをした美しい鳥で、ゲェッゲェッゲゲゲゲゲと甲高い声をあげ、その声が静かな山々にこだまして山里の住人に夏の訪れを告げます。ブッポウソウというと、「仏・法・僧(ぶっ・ぽう・そう)」と鳴く鳥と思っている人が多いのですが、それはコノハズクという小形のフクロウ類で、全く別の種類です。コノハズクは夜に鳴く色彩も地味で目立たない鳥なので、それが鳴く森に昼間派手に出現した鳥を鳴き声の主だと考えてブッポウソウの名がつけられました。それで、コノハズクの方を「声のブッポウソウ」と呼んだりします。「姿のブッポウソウ」、つまり動物学的に本物のブッポウソウは、夏に日本で繁殖しますがその場所は限られているので天然記念物に指定されたりしています。地球温暖化のせいでしょうか理由はわかりませんが、ブッポウソウはここ10年ほどこの地に飛来しなくなっています。再びこの森に帰ってきてくれることを願っています。熊本県の保護上重要な野生生物リストである「レッドリストくまもと2004」で、ブッポウソウは絶滅危惧種、コノハズクは準絶滅危惧種に指定されています。
また、この森にはキセルガイ科の陸産貝類のハナコギセルが生息しています。巻貝の仲間は右巻きが普通なのに、このキセルガイの仲間はすべて左巻きです。ハナコギセルは老樹の幹にできた空洞や根元近くの土壌の中に生息しています。熊本県では五木村・水上村・山江村・球磨村の限られたところだけで分布が確認され、熊本県では絶滅危惧種とされている貝です。この周辺は心和む静かな、平凡な農村風景のように見えますが、このほかにも貴重な動植物がいろいろと確認されている場所なのです。そして、ブッポウソウが南に向かって旅立つころに「宮園の銀杏」が色づき始めます。
■生きている化石、イチョウ
イチョウは生きている化石といわれます。原始のイチョウの仲間は4億年前の古生代末期に地球上に現れ、中生代のジュラ紀(2億3千万年前から1億4千万年前)には世界的に繁茂した裸子植物です。しかし、7千万年ほど前に急に衰え、何種類もあったイチョウの仲間のうち、たった1種だけ東アジアに生き残ったのがイチョウです。
イチョウの化石は日本でも発見されているので、現在我が国で見られるイチョウは、もともと日本に自生していたものが生き延びてきたとか、稲作文化の渡来と一緒に渡ってきた可能性も考えられます。しかし、食用などいろいろと役に立ち目立つ植物なのに、古事記・日本書紀・源氏物語などに記述がないことから、鎌倉時代から室町時代に中国大陸から渡来した、それも留学僧によって持ち帰られたのだろうと考えられています。
イチョウは普通の樹木とは大きく異なる点が多い植物です。眺めただけで誰でもわかる大きな特徴は、独特な葉の形と、秋が深まったころに輝くように黄金色に黄葉する独特の姿でしょう。しかし、イチョウが他の草木と根本的に異なる点は、花が咲いて実が稔るまでの過程です。
花は4月から5月に咲きますが、雌雄異株(しゆういしゅ)ですから雌花と雄花は別の木に咲きます。雄花の花粉は風によって雌花まで運ばれ、露出している胚珠(受精して種子になる部分)に付着して受粉が完了します。しかし、花粉はすぐに受精しないで胚珠の中に花粉管を伸ばすだけで止まっています。それが9月になってから繊毛(せんもう)のある精子(精虫)をつくり、それが卵子(卵細胞)と合体してやっと受精が完了します。その後、「ぎんなん」の固い殻(内種皮)と肉質で臭気の強い外種皮が熟して種子が完成するのです。
イチョウの精子発見は明治29年(1896)で、発見者は日本人の平瀬作五郎でした。明治維新後に西洋に追いつく努力を始めてすぐの日本人が世界的な大発見をしたと世界を驚かせ、日本人も大喜びしたことで有名です。というのも、コケやシダなど下等な植物は精子ができて受精しますが、普通の草木(被子植物という)は精子を作らないで雄の精核が卵細胞の核と合体、つまり受精します。ですから、この発見はイチョウが両者を繋ぐ植物だという重要な証拠になったのです。その後、ソテツにも精子が発見され、シダ植物から裸子植物を経て被子植物に進化した道筋をより強固に示すことになりましたが、ソテツの精子を発見したのも日本人の池野成一郎でした。
近くには、7キロメートル下流の頭地の集落が移転した跡地に「田口の銀杏」が残っており、移転にそなえて大きな枝を切ったり、根まわしをしたりなど養生をしているところです。
対岸の平野(ひらの)の集落は主な部分が台地の上にありますが、平野薬師堂の前に五木出身の力士、熊ヶ嶽猪之介(くまがたけいのすけ、本名 黒柳松次郎)の墓があります。弘化4年(1847)に入幕、17場所にわたって幕内力士として活躍し、嘉永6年(1853)に引退しました。その後帰郷し、余生を後進の育成に費やしました。その墓には、現在も出世祈願に多くの人が訪れます。また、地元では小学生が参加する「熊ヶ嶽杯わんぱく相撲大会」が開かれています。
[案内図]
所在地:
球磨郡五木村甲(こう)
国道445号宮園の集落のほぼ中央に釈迦堂があり、そびえ立つこの木はすぐ分かる。五木北小学校と隣接している 。
本文中の写真および地図については
(財)くまもと緑の財団発行の
「くまもとの老樹名木ガイド」より転載
詳しくはこちらから
http://www.midori.or.jp/midori/guided01.html