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寛永年間に入ると、熊本の天草(当時は唐津藩領)も長崎の島原も、重い年貢と厳しいキリシタン弾圧のもとで民衆の不満は爆発寸前。そのような中、民衆の希望となっていたのがある一つの予言でした。それは、慶長18年(1613年)に宣教師ママコスが予言した「25年後に神の子が出現し、人々を救う」というもの。
その予言からちょうど25年目に、長崎留学から熊本に帰国した一人の少年が、数々の奇跡を起こし、神の子と考えられるようになりました。この少年こそが天草四郎時貞(ときさだ)です。
彼は、天草・島原の乱の際、一揆軍の精神的な支えとなって幕府軍と勇敢に戦いますが、一揆軍とともに16歳という若さで戦死しました。
●天草・島原の乱
天草・島原の乱とは、幕府のキリシタン禁止令と過酷な年貢の取り立ての中で、寛永14年(1637年)、天草と島原の農民3万7千人が、12万5千人余りの幕府軍とおよそ120日間にわたって争った内乱です。この戦いは単なる一揆ではなく、天草四郎時貞を中心としたキリシタン殉教戦と言われています。
天草は、天正19年(1591年)、宣教師養成のための「天草学林(コレジヨ)」が開校するなど、キリスト教をはじめとする南蛮文化が早くから流入した場所でもありました。それだけにキリスト教に寄せる人々の信仰は厚いもので、決して私利私欲のための反乱ではありませんでした。
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