熊本のお茶を深掘
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初代肥後細川藩主・忠利が愛した味  熊本県には、山茶というお茶の木が、山間部に多く自生し、古くから飲用されていたといわれます。その中で、寛永9(1632)年に細川家肥後初代藩主となった細川忠利公が、肥後国巡視の時、現在の鹿北町にあった番所で献上されたのが岳間茶の始まりです。忠利公はその豊かな味わいに感銘を受け、山茶の自生地に御前茶園を整備。生産されるお茶を御前茶として献上させるようになりました。 まろやかな甘みと深~い緑が見事  もちろん、日本茶は庶民の生活にも欠かせないもの。鹿北のお茶が「岳間茶」としてさらに評判を呼ぶようになったのは、明治に入って、岳間でお茶の量産、品質向上、販路拡大に尽力した人々の存在があったからでした。寒暖差が大きく、山や川に囲まれた、良質のお茶の産地として恵まれた岳間で、今もその思いは受け継がれています。岳間茶はまろやかな甘みと、緑の美しさが特徴です。製茶業者はそれぞれにこだわりを持って、岳間産のお茶の特徴を最大限に引き出した多彩なお茶を生産しています。 明治の山鹿は紅茶もつくってた!  明治時代、大量輸出が原因で日本茶の品質が下がり、海外での評判は急下降。打開策に明治政府が打ち出したのが紅茶生産でした。白羽の矢が当たった場所の一つが、良質な山茶生産で定評のあった山鹿地域。明治8(1875)年、日本初の紅茶伝習所が設立されました。試行錯誤を繰り返しながらも、一時、熊本産の紅茶は「肥後紅茶」として世界に輸出されるまでになったのです。その後、紅茶生産は昭和30年代に途絶えましたが、現在、「やまが復刻紅茶」として復刻、販売されています。
幕府献上のため品質向上に尽力した  清流・球磨川に恵まれた人吉・球磨地域の相良藩でも、古くから山茶の生産が藩によって奨励されていました。1600年代の終わり(元禄年間)頃には、すでに商品として出荷されていたといわれています。さらには平安時代末期にお茶の生産が行われていたと考えられる文献も残っています。1700年代中頃から後半にかけては、田畑の境界線などの役割もあった、あぜ道に植えて育てる畦畔茶(けいはんちゃ)の生産も奨励し、幕府献上のための品質向上にも藩を挙げて取り組みました。そのため、球磨川沿いの地方一帯でとても質の高いお茶が生産されるようになったのです。 世界も認めた、豊かな味と香り  中でも、清流・川辺川に恵まれた相良村は、県内でもトップのお茶の産地で、香り高いお茶を作る山間地からお茶の栽培に適した土壌で団地化した台地など、それぞれの土地の条件を活かして生産しています。平成29(2017)年10月には、シンガポールで開催された「にっぽんの宝物グランプリ世界大会」に、相良村の川上製茶と山村製茶がタッグを組んで出場。見事グランプリを獲得しました! 相良茶が世界に広まる日も近いかも! 管理栽培をしていない江戸時代に豊富な生産量を誇る  さすがの相良村にも、江戸時代に今のような茶畑はありません。近世から近代にかけては、焼き畑地に生える山茶から摘葉するのみ。現在のように栽培を管理していたわけではないのにすごい生産量だったというから驚き。熊本出身の作家、小山勝清の『或村(あるむら)の近世史』という本には、相良村について、「この地方においては、茶の木はほとんど無尽蔵といってもよろしい。山を切って焼き払う。すると不思議にも、後には茶の木が密生する」と書かれているほどだったんです!特に高原(たかんばる)台地の茶畑の風景は圧巻で「熊本にもこんな茶畑があったの!?」と驚かれることも。